ルーツ・歴史



早見表

年代順に、記録のあるものと、記録の空白を管理人の推測で埋めた早見表です。
今後も情報提供に基づいて更新していきたいと考えています。
各項目の詳細は下にスクロールしてください。
年代種別簡易説明
西暦:1180年11月22日
和暦:治承4年11月4日
(平安時代末期)
史実金砂城の戦い
源頼朝が常陸の国の佐竹氏に対して進軍した戦争。
佐竹側の武将として海老根右衛門が参加。
鎌倉時代~
 安土桃山時代
推測金砂城の戦いの後、約400年間は歴史上の資料に海老根という人名は現段階で見つかっていない。
海老根右衛門の子孫はその後も佐竹家の家臣として代を重ねたものと推測される。
西暦:1561年8月4日
和暦:永禄4年6月23日
(室町時代末期)
史実陸奥の国の田村氏の領内における年貢に関しての資料「熊野山新宮年貢帳」に地名としてゑひねの文字が登場する。
西暦:1593年11月6日
和暦:文禄2年閏9月14日
(安土桃山時代)
史実佐竹(東)義久から海老根備後守(エビネ ビンゴのカミ)に宛てた手紙の記録が残っている。
西暦:1595年10月8日
和暦:文禄4年9月5日
(安土桃山時代)
史実佐竹(東)義久から海老根備後守(エビネ ビンゴのカミ)に宛てた手紙の記録が残っている。
西暦:1600年9月14日
和暦:慶長5年8月7日
(安土桃山時代)
史実佐竹(東)義久から海老根可兵衛に宛てた手紙の記録が残っている。
西暦:1601年~1602年
和暦:慶長6年~慶長7年
(江戸時代初期)
推測関ケ原の戦いの後、 慶長6年11月28日(1601年12月22日)に佐竹義久が急死(暗殺とも伝わる)し、慶長7年5月8日(1602年6月27日)に佐竹家は秋田県へ転封となる。
海老根家が秋田藩へ追従した記録は見当たらない。このタイミングで海老根家は常陸の国で帰農したものと推測される。
時代不明史実大内政之介氏の「新編 金砂戦国史」によると、常陸の国の江戸氏(旧那珂氏)の家臣団の一覧に「二百五十貫 中石崎村 海老根石見」(石見守?)との記載がある。仕官年代は不明。


金砂城の戦い
平安時代末期の治承4年11月4日(1180年11月22日)に、源頼朝が常陸の国の佐竹氏に対して進軍した戦争。また、歴史上の記録で最初に「海老根」という文字が登場した事象です。
茨城県立図書館所蔵の「金砂軍記」に海老根右衛門が記載されています。

このページだけ現代の文字に置き換えました
要害堅固の地を撰し置しなれは金砂山へ楯籠るへしと
諸軍勢を引具して登山せらるる相従ふ兵には近津左衛門
春時、太子右衛門国夏、小里八郎秋氏、大塚民部重冬、松岡兵
衛常住、久慈金丞安清、村松緑丸、志津宿弥兼豊、戸
村十郎、長倉次郎、野口七郎近平、檜澤五郎、高部三郎、
山方弾正有住、高倉大膳、久米八郎、関数馬、利員式部守
道、矢部新九郎道実、岩部丹後、部垂兵部義清、
宇留野前小屋、を先として都合其勢三千余騎金砂
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山西の口より押登て楯籠る去程に別当は末寺末山へ催
促の触をなし勢をそ催しける先一番に降魔坊利剣、断
惑坊智剣、御先坊軍忮辡に管玄妙玄坊、本覚坊常葉
松柏、杉山梅香、阪本禅覚、海老根右衛門、横川雲水、鷹巣
神管照基、其外の衆徒我もと馳集り木戸柵を繕い堅
固に用意して寄る待てそ居たりける頼朝の御陣
ては佐竹秀義金砂に籠城せし由聞えけれは急に押寄せて
討取れとて向らるる人々にには下川辺庄司行平、同四郎

また、この資料を基に、この戦いの開戦前の配置図が金砂郷村史編さん委員会編「金砂郷村史」に掲載されている。

ちなみに海老根右衛門の陣がある場所の少し南が現在の赤土町です。現在でもこの土地一帯の所有者のほとんどが海老根さんです。
この戦いで海老根右衛門がどうなったのかは、残念ながら記録されていません。
尚、合戦自体は味方の裏切りが原因で不落とされた金砂城が落ち、敗戦しています。
また、現在の赤土町地域に多く分布している海老根一族と、海老根右衛門との繋がりを証明する資料は見つかっていません。今回の調査にご協力いただき大変お世話になった常陸太田市の菊蓮寺の住職さまも「何らかの形で必ず繋がっている」との見解を示されました。私もそう信じています。

鎌倉時代~室町・戦国時代
この時代約400年間に渡り、歴史上の記録に海老根の文字は登場していません。
恐らく金砂城の戦い以降も佐竹家の家臣であったと推測されます。
なにか情報があれば是非ともお寄せください。

安土桃山時代
佐竹(東)義久から海老根氏に宛てた3通の手紙の記録が、秋田県公文書館の「秋田藩家蔵文書」に掲載されています。
尚、秋田県公文書館のこちらのリンクからオンラインで閲覧することができます。
①文書番号A280-2-27の1ページ
綴られた記録の表紙
②文書番号A280-2-27の133ページ
受領之事有御心得者也
文禄貮年
 壬九月十四日(義久)
  海老根備後守との

文禄2年閏9月14日(1593年11月6日)佐竹(東)義久から海老根備後守に宛てた手紙。受領の事、お心得ある者なり。何かプレゼントでもしたのでしょうかね。
この頃の出来事として、豊臣秀吉が唐(現在の中国)に攻め込む前段階で朝鮮半島に攻め込んだ「文禄・慶長の役」の1回目の遠征が文禄元年から始まります。
翌年の文禄2年の4月頃から戦況が悪化し、撤退モードになりますが、豊臣秀吉の命令で予備軍としての出陣を要求された佐竹義宣は、自分の代わりに佐竹(東)義久を派遣します。
記録では文禄2年6月13日に佐竹(東)義久軍1440人が名護屋(佐賀県唐津市)を出航しています。海老根備後守がこれに従軍したかどうかは分かっていません。
この手紙は義久が陣中もしくは帰国直後ぐらいに書いたものだと思われます。
③文書番号A280-2-27の144ページ
三十三石
 十石かしま宮中之内
 二十三石とさきかも之内
  合卅三石 遣之候
文禄 未  四年九月五日
   海老備後守との

文禄4年9月5日(1595年10月8日)佐竹(東)義久から海老根備後守に宛てた手紙。(日付内の「乙未」は十干と十二支)
「根」の文字が抜けているが、「海老」という苗字が存在する可能性は低いことや、②の手紙と時期が2年しか離れていないこと、こんなに紛らわしい似た苗字の人が同じ地区の守護職を名乗ることは考えにくいため、転記した際のミスと思われる。
知行についての手紙だと思われます。
33石、10石:かしま宮中の内、23石:とさきかもの内、合計33石を遣わしそうろう。
現在の茨城県の南部に「鹿島宮中」「戸崎」「加茂」という地区が存在します。
尚、この地区は佐竹(東)義久が豊臣秀吉から直接与えられた(6万石)義久単独の領地です。
鹿島宮中戸崎&加茂
④文書番号A280-2-27の158ページ
爲賀(加)恩十七石之所遣之候
       仍如件
 慶長五年
  八月七日
    海老根可兵衛との

慶長5年8月7日(1600年9月14日)佐竹(東)義久から海老根可兵衛に宛てた手紙。
「加恩」は知行を増し与えることです。爲加恩(加恩をなす)、17石の所、これ遣わし候(そうろう)、仍(よって)件(クダン)の如(ごと)し。17石の給料アップです。
ちなみにこの時期の出来事として、この手紙の約2ヵ月前の慶長5年6月2日に、徳川家康が会津上杉征伐を発表します。
7月24日に家康が下野(栃木県)小山にて、石田三成らの挙兵を知ります。
7月27日に小山で対策会議をします。世に言う小山評定です。その後、家康は関ケ原に向けて引き返します。
海老根可兵衛宛ての手紙の約2週間後の8月25日に、佐竹義宣の命令で佐竹(東)義久が300騎を率い上田城に拠る真田昌幸を攻撃していた徳川秀忠への援軍として参戦します。
この義久軍に海老根可兵衛が加わったかどうかは不明ですが、役職的なことを考えると可能性は否定できないと思います。
そして9月15日に関ヶ原の戦いへと時代は流れていきます。
「備後守」について
「〇〇守」という守護職は、本来朝廷から発行される役職でしたが、戦国時代あたりからは各地の大名が勝手に名乗り始め、戦国時代末期には大名が勝手に自分の家来に発行していたようです。
朝廷から賜った正式な守護職では無いものの、大名家の中ではそれなりに重要なポジションに居た家臣に対して施された役職ですので、海老根氏は佐竹氏の中ではそれなりの地位にあったと考えられます。今の会社で言うと部長さんぐらいでしょうかね(笑)
ちなみに守護職の中でも常陸国(茨城県)、上総国(千葉県中南部)、上野国(栃木県)の3国は「親王任国」とされ、常陸守、上総守、上野守の役職は皇族専用でした。ですのでこれ以外の地域の守護職は勝手に使われていましたが、さすがに常陸守とかを勝手に名乗る武将は居なかったようです。
守護職には次官の役職もあり、それは「介」となります。国司の階級は上から順に「守(カミ)」「介(スケ)」「大掾(タイジョウ)」「少掾(ショウジョウ)」「大目(タイサカン)」「少目(ショウサカン)」です。*皇族の親王が任官する場合は「大守」
即ち、親王任国の守護職を名乗りたければ次官職である「常陸介」が実務上のトップとされていたようです。
織田信長は織田上総介信長と名乗っていましたね。

江戸時代
関ケ原の戦いで勝利した徳川家康は、戦後処理として味方の武将にご褒美、敵方の武将に懲罰を与えます。佐竹義宣は前述した通り、佐竹(東)義久を徳川秀忠への援軍として派遣していますが、関ケ原の本戦は日和見していました。
これはやはり印象が良いものではなく、また常陸の国は江戸から近く、国力もそこそこ持っている(しかも参戦していないので無傷の国力)こともあり、徳川家康から見れば何か対策を講じたい存在となってしまいます。
佐竹義宣は直接徳川家康に会いに行き、申し開きをしていますが効果はイマイチだったようです。
そこで佐竹(東)義久が徳川家康に交渉に行きます。なぜか大いに気に入られたらしく「おまえの生きているうちは国替え命令は出さないでおこう」と言われたようですが、その直後に義久は死亡しています。(ズコー!)
佐竹家内で、義久の権力が増すのを良く思わない勢力による暗殺説もあるようです。
ちなみにこの佐竹(東)義久は、豊臣秀吉時代に秀吉と直接会ったときにも大そう気に入られ、豊臣直轄地の代官に任官し、更に常陸の国の南部に6万石の領地を与えられ、実質上の大名と同じ扱いを受けました。これは他にほとんど例が無い特別待遇です。
このようなことから、佐竹義宣を飛び越して秀吉にも家康にも気に入られた義久はすごい人物だったと言うような評価が一般的ですが、私は少し違うと思っています。
確かに天下人から一目置かれるような人格ではあったのでしょうけども、天下人のようなシタタカな人物が「気に入った」という理由だけでこのような待遇をするでしょうか?
他に褒美を与えなければならない功労者はたくさん居ますし、自分の政権になにもメリットが無いのに、なんの功労もない武将に好待遇をするとは思えません。
ところで豊臣秀吉は同じ時期に陸奥の国の伊達政宗の一族家臣である伊達成実(しげざね)にも、正宗を飛び越しての好待遇をして大名扱いをしています。
どちらにも言える共通点として、秀吉に最後まで従わなかった独立系の大名の家臣であること、家臣団の中でも最も勢力のある一族の名を冠した大名家一門の(相続の候補となり得る)家臣であることです。
伊達成実はその後、伊達政宗の嫉妬に気を使い行動がぎこちなくなり、最後は気まずくなったのか、伊達家を出奔してしまいます。佐竹(東)義久は前述の通り急死してしまいます。
どちらのケースもお家騒動となりそうな爆弾を抱え、争いにはならなかったものの、大名としての国力が低下することに繋がっています。
邪推しすぎかもしれませんが、このあたりに天下人のシタタカさが見えるような気がしてなりません。

さて話を戻して、佐竹(東)義久が慶長6年11月28日(1601年12月22日)に死亡し、半年後の慶長7年5月8日に、佐竹氏は徳川の命令で秋田県に転封させられてしまいます。
新所領の範囲は、佐竹家が常陸の国で所領していた規模の半分以下になったようです。つまり会社で言うと事業縮小です。家臣団も全員連れて行っては養えないのでリストラが必要です。
海老根氏はこの国替え後の資料に登場しません。また、秋田に伴わなかった家臣の一部が、その後に常陸の国に入った徳川家(水戸藩)に仕官していますが、その家臣団資料にも海老根の名前は見当たりませんでした。
恐らくこのタイミングで帰農したものと推測しています。江戸時代、元々武士であっても帰農すると帯刀はおろか、苗字を持つことも許されませんでしたので、この時点で表面上は苗字を失ったものと考えられます。

明治時代
明治時代に急速に近代化した政府は、徴兵制度を整備しますが、この時に問題となったのが苗字です。
山田村の太郎を徴兵しようとしても、村内のあちこちの家に太郎が居て、どの太郎を徴兵したのか分からない状況になります。
これは近代国家としてはマズイので、華族や士族だけでなく、平民も苗字を持っていいよと、明治3年9月19日に平民苗字許可令を交付します。
しかし、武士が帰農した一族などはこのタイミングで苗字を復活させましたが、元々農民だった一族は特にメリットも無いし、考えるのもめんどくさいし、そもそも文字の読み書きができないしで、あまり制度が広がりませんでした。
そこで政府は、平民も苗字を持つことを義務としました。明治8年2月13日公布の「平民苗字必称義務令」です。
元々農民だった一族は、お寺や神社に相談したりしてかなりテキトーに決めたようです。「じゃ、あんたは田んぼの中に住んでるから田中でいこうか」みたいなノリです(笑)
海老根家の子孫一族もこの流れで苗字を復活させたものだと考えます。

現代
現在、茨城県常陸太田市赤土町に海老根一族専用の墓地があります。隣接した街道から繋がる専用の参道があり、参道の石碑も建立されています。専用の参道を100mほど進むと一族の墓地に到着します。
参道の入り口の石碑はGoogleストリートビュー(←クリック)でも閲覧することができます。
参道入口の石碑海老根一族の墓

私は、この墓地の墓石に記載されているご先祖様の生前のお名前と法名やお亡くなりになられた年月日を全て把握しています。また、江戸時代~明治時代のお祝い事やお葬式の参列者台帳なども多数残っていて、海老根さんの名前がかなり多く記載されています。「ご先祖様にこんな名前の人が居るんだけど、そこに書かれていないか?」などの質問にはある程度対応できると思います。

海老根村について
福島県に海老根村(海老根邑)という地区が存在していました。現在は市の合併で郡山市に編入され、海老根村の名前は消滅していますが、住所としては郡山市中田町海老根として存在しています。海老根和紙発祥(1658年)の地です。
郡山市立海老根小学校(明治6年上石小学校創立、明治9年海老根小学校に改称)は現在も存在しております。
この海老根村の発祥を調査してみました。
室町時代末期に現在の福島県郡山市を所領していた田村氏の領内の年貢に関しての資料で、永禄4年(1561年)6月23日付けの「熊野山新宮年貢帳」に「ゑひね」という地域名が記録されているのが最も古い記録です。その7年後の永禄11年(1568年)7月吉日付けの「熊野山新宮年貢帳」にも「ゑひね」の記録があり、天正14年(1586年)10月13日付けの「田村荘年貢帳」には記載が見当たらず、その後「蝦根(蛇沢?)」や「惠比根」などの文字を経て天正18年(1590年)10月9日付けの「田村領知行方指出御帳」で「海老根」という文字になっています。(※参考:1974年 郡山市出版「郡山の歴史」、2015年 遠藤ゆり子氏 論文「戦国時代における田村領の「熊野山新宮年貢帳」と村落」)
金砂城の戦いは1180年ですから、海老根村よりも海老根右衛門のほうが400年ぐらい古いですね。どちらの海老根も発祥は不明ですから、人名が先か地名が先かは断定できませんが、現段階での記録上では人名が先ということになります。
また、郡山市中田町海老根地区のお寺さん、葬儀屋さん、小学校に「そちらの地区に海老根さんという苗字の人は多いですか?」と問い合わせたところ、みなさん揃って「1人も居ません」と即答で断言されていました。更に海老根村は表記文字がブレていることも考えると、少なくとも海老根村と海老根姓の関連は薄そうです。

海老根城について
広島県東広島市黒瀬町市飯田地区に海老根山という標高315mの山があります。この地区にはかつて「海老根城」(海老根ケ城)という城がありました。房田万五郎が城主を務めていた記録(室町時代末期)が残っています。
文献によっては「ゑひ祢が城」という文字だったりします。
また、黒瀬町市飯田321-1に海老根神社があります。
房田氏は大内氏の配下にありましたが、1561年に毛利氏が近くまで攻めて来た際に海老根城を焼き払って逃げたようです。その後海老根城が再建されたのかどうかは分かりません。
あまり詳しく調べてませんが、海老根姓との関連は発見できていません。

えびね温泉について(2021/10/02 追記)
和歌山県西牟婁郡白浜町向平の日置川沿いに「えびね温泉」があります。
明治時代には自噴していたようですが、同時代の水害によって源泉が失われたそうです。昭和9年にボーリングが行われ、現在の姿に。
名前の由来は「エビネ蘭」から取ったそうです。
地名でもなく、近所に「海老根さん」が住んでるという話しも無いそうです。海老根姓との関連は無さそうです。

その他
現時点では、茨城県常陸太田市赤土町地域の海老根家に関する情報が中心となってしまっていますが、他の地域や、他のルーツの情報も増やしていきたいと考えています。そのためには世界中の海老根さんの協力が必要不可欠です。

名字由来netというサイトや人名力別館というサイトの情報によると、茨城県を始め、千葉県や東京都、埼玉県、神奈川県にも多くの分布が確認できます。
これをを基に60人以上が在住している地区を地図上でマーキングしてみました。
(※データ引用元:2018年6月 名字由来net)

〇〇県〇〇地区にも海老根の集落があるんだけど!とか、こんな古い記録が見つかったんだけど!など、どんどんご意見をお寄せください。

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